映画「ドラえもん のび太の新恐竜」に見る進化と絶滅(ネタバレあり)

昨日、長女と次女と3人で映画「ドラえもん のび太の新恐竜」を見てきました。

ネタバレありで、感想を書きます。

 

恐竜の絶滅と進化は、1カ月間、国立科博の真鍋真さんの連載「恐竜は進化する」を読んできたので、私には、とてもタイムリーな話題でした。

連載を読んで映画を見ると、ファンタジーとサイエンスの境界線がくっきりと見えて、違う映画の楽しみ方ができました。

 

ドラえもんと恐竜といえば、フタバスズキリュウのピー助が出てくる「のび太と恐竜」が懐かしいですよね。

今回の主役は、羽毛恐竜のキューとミュー。

キューとミューを仲間の元に返すために、白亜紀にやってきたのび太たちの大冒険です。

羽毛恐竜というと、昨年の国立科博の恐竜展がとてもおもしろく印象的でした。

こちらの主役は獣脚類のデイノケイルス。

獣脚類は、ティラノサウルスなどと同じで、太い後ろ足で、わりと速いスピードで走り回ります。

デイノケイルスも羽毛は体を温めるためのもので、翼があるわけではありません。

羽のような羽毛がある両手は、卵を温めるために使ったかもしれないのだそうです。

地面に作られた巣に、もしかしたら丸くドーナツ状に卵を並べて、その真ん中に座って、両手の羽で卵を温める・・・恐竜展に展示されたデイノケイルスの姿は、卵を温める鳥によく似ていて、こんなに賢かったのかと衝撃でした。

そんなデイノケイルスにあやかりたかったのか、キューとミューも獣脚類でした。

でも、ちょっと待って。

獣脚類って飛べるのかな?

白亜紀当時、空を飛べる恐竜もいたのですが、足の形も木に登れるようになっているし、獣脚類みたいに後ろ足に重心がある感じじゃないんですよね。

まあ、そこはファンタジーってことで、ってことなんでしょうね。

実際、キューとミューの描き方は、ほかの恐竜たちとかなり違っていました。

ほかの恐竜は、ヴェロキラプトルティラノサウルスも、さまざまな恐竜が出てくるのですが、ウロコや羽毛もていねいに描かれていてなかなかリアルなのです。

でも、キューとミューは可愛くってとてもファンタジー

どうやら、白亜紀をリアルに描きつつ、キューとミューは実在しない恐竜としてのファンタジーの要素を残したようです。

キューとミューの双子という設定にも大きな意味があります。

とても成長が早く、すぐに空を滑空できるようになるミューに対して、キューはのび太によく似た劣等生。

空が全然飛べないし、体も小さいままです。

ミューのように飛んでみな、と練習させても、両手を上下にバタつかせてしまって、ちっとも上手に滑空できないのです。

「これでは生き残れない」とのび太は心配して、キューを特訓するのでした。

この双子の特徴の違いには、とても大きな意味があることが、ラストで判明します。

キューが両手を上下にバタつかせるのは、特訓の末に「羽ばたき」になるのです。

鳥への進化の一歩、ですよね。

現実の世界ではこんなことは起きません。

動物は、努力で進化するわけではなく、同じ種の中でも多様な形態で生まれてきて、その時代の環境に適応した個体の方が生き残り、子孫を残して、適応できない子たちが淘汰されてしまうんですよね。

滑空できる多数派の羽毛恐竜の中で、翼を上下に動かすことができる少数派たちがより多く生き残って、その形質が次の世代、また次の世代と長い時間をかけて環境に合った特長がより強められていき、羽ばたける鳥へと進化していくのではないかと思います。

ドラマチックですよね〜。

でも、それではキューとミューの物語としてはまとめられませんよね(笑)

だから、滑空できる恐竜の仲間の中で、両手を不格好にバタバタさせてしまうキューが、実は「羽ばたく」という進化の先駆けだったという「進化の物語」は、子ども向けに進化を優しく伝えていて、いい感じだったのではないかと思うのです。

この物語を通して、ポケモンとは違う本当の動物たちの進化が、どうやって起きるのか、興味をもってくれると、とてもいいのではないのかな?と。

大切なのは、キューが、ほかの滑空する群れの中では劣等生でマイノリティーのいじめられっ子だということです。

ほかの子と同じようにできないということが、進化の中でとても大事なことなんですよね。

動物は、同じ種の中であっても、個々に多様で、その多様性の中に、環境が激変したときに生き残る可能性がある要素を持つ個体がいることが大事なんですね。

両手を上下に動かせるというのは、たぶんほかの個体と骨格が少し違っていて、関節が動きやすかったりするのかもしれません。

人間でいうと、それは「障害」と呼ばれるような、ほかのマジョリティーとは違う特徴なわけですが、その特徴があるからこそ、羽ばたくことができるんですよね。

多様であることの大切さ、君たち一人ひとりは違っていて大丈夫なんだよ、という映画のメッセージがなかなかいいんではないかなぁ、と思います。

 

ただ、羽毛恐竜が空を飛べたから絶滅を免れたのか、というと、真鍋先生の連載ではそうは書かれていませんでした。

恒温動物だったこと、羽毛で体温を保てたことは、一つの要素かもしれません。

卵を温めたりする頭脳を持っていたことも大事な要素なのかもしれません。

でも、それ以上に大きかったのは、巨大ではなかったということのようなのです。

巨大な恐竜たちは、草食も肉食も大量の餌を必要としました。

隕石が落下して、地球全体が雲で覆われ、寒冷期に突入したとき、多くの巨大な恐竜たちは餌を取れなくなり、絶滅していったのだそうです。

羽毛恐竜の中で、体の小さなものたちだけが、少ない餌で命をつなぐことができたのです。

空を飛ぶことで絶滅を免れたような話になっているのは、実際とかなり違う点のようでした。

 

さらに、もっというと、隕石の落下で起きた現象も、真鍋先生の記事に書かれていたことと、映画の中で起きたことは違っていました。

現実には、メキシコのユカタン半島の海に巨大隕石が落下し、直径200キロメートという巨大なクレーターができるのだそうです。

隕石落下の影響はすさまじく、空には大量の煤が舞い上がり地球全体を覆う雲となり、地表に日光が届かなくなった結果、寒冷期が訪れたといいます。

隕石落下の影響、ディープインパクトは、メキシコの周辺では、映画のように熱風が起き、各地で大火事が起きたりもしたようです。

それがどのくらいの広さに及んだのか、よくわかりませんが、かなり広大な範囲で熱風が起きたし、そのために広大な範囲で火災が発生したのだと思います。

でも、その熱風が映画のように、地球の裏側の日本近海にまで届いたかというと、それはどうなのだろう?という気がします。

一部の地域では、映画のように熱風や大火災の影響で恐竜たちも死んでいったかもしれません。

でも、日本近海では、煤が巻き上げられて地球全体を覆った雲の影響で、寒冷期が到来し、巨大な恐竜たちが絶滅していったと考えた方がよさそうです。

ドラえもんの映画に出てくるディープインパクトは衝撃的でした。

熱風というより、メキシコで発生した火災がそのまま日本まで到達したかのような勢いでした。

そして、のび太たちは、恐竜たちを助けるために大活躍します。

その中で、キューは必死で羽ばたき、子どもたちの目の前で、進化の瞬間が起きる、ということになります。

現実の絶滅も進化も、もっと時間をかけてゆっくりと進行していくのですが、ドラえもんではよりわかりやすく見せるために、すべてが短時間に一気に起こるわけです。

 

私たちは、この映画を見た後で、子どもたちとどんな風に映画の感想を言い合ったらいいのかな?とちょっと迷います。

「あんなのウソだよ」では、なんともおもしろくありません。

物語仕立てになった進化と絶滅を、より科学的な興味が湧くような話にしていくのって、なかなか難しいな、と思います。

絶滅という衝撃的な出来事と、その中でも小さなものたちが生き延びて、鳥へと進化していったという現実は、それだけでも十分にドラマチックで、「これは本当のことなんだよ」と教えたい気がします。

ファンタジーとしてわかりやすく描かれたドラえもんを元に、子どもたちの関心がサイエンスに一歩一歩近づくような、そんなおしゃべりができるといいなぁと思うんですけど、そんなに簡単じゃないですよね(笑)

子どもたちの好奇心をつぶさないように。

科学的な好奇心の芽が育つように・・・。

 

https://doraeiga.com/2020/f:id:miyurinote:20200816230118j:image

PCR検査はなぜ増えないのか?

PCR検査がなかなか増えないと、テレビで指摘されていますね。

なぜ増えないのか?

テレビで曰く、

厚労省内の専門家が強硬に反対しているからじゃないか?

・検査数が増えないから、民話企業が機器の購入や人員の増加をせず、キャパが増えず、キャパが増えないから検査数が増えない

・保健所の人員不足で行政検査が増えない

などなどなど。

中には、ホンマかいな?と思う説もあります。

 

私は、PCR検査については、クルーズ船で混乱していた2月ごろから、PCR検査を増やすべきだと主張してきました。

職場では、そのせいで何かと激論になりました。

当時は、PCR検査は増やすべきでないという人が職場にも結構いたんですよね。

そのときに言っていた理由は

・検査で陽性が出たらその病院は休業する羽目になって大変なんだ

・検査の待合室などでかえって感染を広げてしまう

・検査で陽性がたくさん出てきたら医療崩壊を引き起こす

・感度が低く、偽陰性がたくさん出るし、特異度もあるから偽陽性も出てしまい、陽性よりも偽陽性が多くなる場合すらあるから、ムダな検査になる

・そもそも、感染率が低いのにやたらと検査を広げるのは財政のムダでもったいない

アンテナが高い人たちが言っていたことなので、それなりに専門家や詳しい中心的な人たちがこういうことを主張していたのだと思います。

でも、クルーズ船の様相を見ていると、検査をして確定して隔離する。さらに周辺の人たちも検査をしてさらなる感染者を見つけていくということをやっていかないと、感染は確実に広がるだろうと思わずにはいられませんでした。

検査の過程で感染するとか、感染者が多すぎて医療崩壊を起こすなどの問題は、さまざまな工夫をすればクリアできそうです。

当時、私が心配していたのは、どこかで見えざるクラスターが発生している可能性があり、それをどんどん見つけていかないと、感染は無尽蔵に広がり、気がついたときにはオーバーシュートのとば口に立っていることになりかねないということでした。

私が、とにかく必要だと思っていたのは、発熱した人は1日目からすぐに検査できるだけの体制をつくることでした。

感染者が何人かいれば、そこに必ず発熱した人が出てくる。その人を検査して、その周辺を検査すれば、クラスターや複数の感染者が見つかり、隔離をすればその分感染拡大を食い止めることができる、という考え方でした。

当時は、発熱患者が自宅におとなしくしていれば、必ずしも検査をしなくても感染拡大を防ぐことができる、と専門家会議などは推奨していました。

職場でも、それを推奨する人もいました。

でも、私はそれでは感染拡大は防げないと思っていました。

一つは、日本人は熱が出たときに2週間も仕事を休み続けるということはできないだろうと思ったためです。

もう一つは、発熱患者を検査しなければ、その周辺の感染者を発見することも不可能になるので、見えないクラスターが都内各地にできてしまい、それが顕在化した頃には手遅れになる公算が高い、と思ったためです。

ところが、厚労省は発熱4日ルールを設けて、なかなか検査が受けられない状態を生み出し、感染拡大を招いてしまいました。

なぜ、検査を抑制したのか?

医療機関と保健所と検査体制が圧倒的に不足していたためです。

とくに医療機関が足りないことで、無症状者もふくめて感染者を把握してしまうと、その人たちの入院で病院はパンクしてしまい、医療崩壊を招くことを恐れていたのでした。

ですが、感染者はどんどん増えました。

とくに、発熱4日ルールを守って検査をした結果、陽性と判明したときには結構重症の状態という人も一定数いたようです。

無症状や軽症者のほとんどは見つからず、検査で発見できるのは、すでに肺に影があるような中等症者と重症者が多く、無症状者はたまたまクラスターの中で見つかる程度だったのではないかと思います。

でも、本当はその周辺に、多くの無症状者がいて、その人たちが媒介していたのです。

第二波では、その構造が明らかになりました。

健康保険で検査が可能になり、医師会の協力のもと、行政検査以外のPCR検査が可能になったため、発熱したら検査ができ、その周辺の無症状者も把握できるようになりました。

若者の無症状者や軽症者が予想以上に多く、その結果、相対的に重症者は前回よりも増えにくくなったように見えます。

でも、これは早く把握できるようになった結果に過ぎないのではないかと思います。

検査は、一定拡充はできました。

それでも、感染拡大を食い止めるまでには至っていません。

発熱したら検査、濃厚接触者は検査・・・せいぜいその程度にとどまっている感覚です。

増えないままでは、インフルエンザが流行したときに、また発熱患者が検査をできず、コロナか?インフルエンザか?と判断できずに困ってしまう可能性が高くなります。

現に、現在も、発熱した高校生が熱中症ではないかと検査を受けず、後からコロナと判明したケースがありました。

発熱しているのに検査をしないなんて、いまの状況下ではとち狂ってらとしか言いようがないです。

私も「コロナと熱中症」をテーマに医師に取材をしましたが、現状では熱中症だろうと思われる症例でもすべて検査はしたほうがいいとのことでした。

世間を見ると、熱中症とコロナ では、明らかに熱中症で体調を崩す人の方が多いです。

でも、可能性としてはそうであっても検査は必ずするべきです。

なぜなら、発熱患者の周辺には、複数の感染者が潜んでいる可能性があるからです。

こういう一つひとつの事例で、検査を躊躇しないためにも検査を拡充していくことは必須だと思います。

そこに何の異論も出てこないのではないでしょうか?

検査拡充しなければならないということは、一見明確に思えます。

これほど必要性が明確なのに、そして野党だけでなく専門家会議も分科会も政府も与党も拡充すると言っているのに、なぜ増えないのだろう?と疑問が生じてきます。

厚労省はかつて4日間ルールを設けて検査を絞った前科があるので、真っ先に疑われそうなものです(笑)

でも、これは少し丁寧に見ていかないと、印象や情報に飛びつくと間違えてしまうような感じがします。

そもそも、検査を担っているのは、保健所と公的な検査機関のルートと、病院と民間検査機関のルートと、大きく分けるとこの二手になります。

検査を受けたい人は、まず保健所に相談して、行政検査が受けられるかどうかという第一のルートの可能性を探るわけですが、こちらはかなり限界まで機能しているのではないかと思います。

クラスターが発生すれば、せっせと濃厚接触者を拾って検査をしていくのはこのルートなのです。

数十人規模のクラスターが発生すれば、どれほどのてんてこ舞いになるかは、ちょっと想像すればわかることで、いざというときのために一定余地を残しておきたいというのも当然だと思われます。

もう一方の病院ルートは、民間検査機関のキャパにはまだ余裕がありそうです。

こちらをどんどん増やしていけば、民間機関も検査機器を導入して増えていきそうなものですが、なかなかそうならないのが疑問なのです。

そもそも、キャパいっぱいになるほど、医療機関からの検査が持ち込まれているわけではなさそうなんですね。

こちらの方は、症状が出た人が検査を受けるのが通常なので、コロナ の市中感染率が50人に1人とか、かなりのところまで高まって、発熱患者が急増でもしない限り、そうそう急に増えていくものでもないのでしょう。

そうは言っても、コロナの感染者は2週間ごとに増えているわけで、このままでは歯止めがかからなくなりそうで、いま打てる唯一の効果的な方法が検査のようにも思えます。

そこで、無症状者をどんどん検査していったらどうか?ということになるわけですね。

この中で、旅行に行く前に念のために検査をするというような人は、自主診療で保険は使わずに自分で全額払います

現在、症状もなく濃厚接触者でもない、つまり感染している可能性がもっとも低い群がいて、これがものすごい数にのぼるわけです。

この中から、感染している人を抽出しましょう、という難題が目の前にぶら下がっているんだな、と思います。

そこで、「武漢のように全数検査をやったらいい」という発想が出てくるのも、まあ、当然の流れだろうなと思います。

こういう話が出てくると、蒸し返されるのが、「感度、特異度の話」というわけです。

感度、特異度の話というのは、私は最初、政府系の医療関係者やネトウヨの人たちなどがPCR検査拡大すべしの世論を抑え込むために主張しているのかと思っていました。

ところが、いろいろ見ていると、公的な検査機関の検査技師や、災害時感染症対策チームなど、現場の人も一生懸命に発信しているんですね。

現場主義の私としては、この声は見過ごすことができないと感じ、いろいろと見てみました。

やはりわずかとはいえ、偽陽性者は出てしまうようで、しかも検査を無症状者に闇雲に広げれば、それだけ偽陽性者も出てしまうということのようです。

たとえば、特異度が99・99%なら1万人に1人が偽陽性です。

岩手県は日本で一番感染が抑えこめている地域ですが、その人口が123万人。

もし全数検査をすれば、123人の陽性者が出て、実はそのうち1人も感染者はいなかった、ということも起こり得るわけです。

これはたしかに不合理な気がします。

では、岩手はやめて東京ならどうでしょう?

1400万人に全数検査をやってみる。

すると1400人が陽性になります。

もしかすると、もう少し多いかもしれません。

感染者が一定の比率いるだろうと思われるからです。

いま、東京は多い日で400人の感染者が出ています。

それでも偽陽性の方が数が多いというわけです。

なるほど、全数検査はやめた方がいい、増やすにしてももう少しターゲットを絞って、感染者が多い群の中で検査を拡充しないと、検査技師の仕事が増えるばかりだな、だから現場が一生懸命にやめてくれと訴えていたわけか、と見えてきます。

現場の苦労が報われるような検査のやり方を考えていかなくてはいけません。

ニューヨークが「いつでもどこでも誰でも」という検査をやって一定成果を収めているのは、それだけ感染率が高かったからです。

日本でも、どの程度の検査の拡大をするべきかは、地方に応じて、感染率に応じて考えていく必要があるでしょう。

世田谷区は医師会や東大の協力を得て、もっと検査を増やす方向のようです。

たとえば医療関係者や福祉関係者全員に定期的にPCR検査を行うということで、これはとても有効だと思います。

新規入院患者とスタッフに関しては、できるだけ検査を行うことで、院内感染を防ぐことができ、重症患者を出すリスクを減らすことができますからね。

一方でスローガンに掲げている「いつでもどこでも誰でも」は、反対はしないけれど、将来的な目標とするくらいでいいのでは?とも思えます。

もっと重点を置くべきところがあるんじゃないのかな?とも思えるので、必ずしもニューヨークのように検査を充実させなくてはいけないというものではないと思います。

東京医師会がいう1万人に1カ所というのは、とても妥当な数字です。

なぜなら、インフルエンザの季節が来ると、必ず発熱者が出てきて、検査を必要とします。

「秋冬にコロナ患者が増える」というのは、なんのエビデンスもないただの憶測ですが、「秋冬にインフルエンザが出てくる」というのは確実なエビデンスのある話なのです。

ついでにいうと、「夏にコロナはいったん収束し、秋冬に増える」というのも、なんのエビデンスもない憶測でした。

これを繰り返し言っていた人がいて、なんとなくGOTOトラベルも大丈夫なのかな?という空気を世間に広げてしまいました。

この方は、それ以前には「学校で感染が広がる。休校すれば感染を抑えることができる」と主張して、実際に一斉休校のきっかけをつくってしまったのではないかと思われます。

まあ、責任者はあくまで判断した首相ですがね。

専門家会議は「休校についてはエビデンスはない」と言っていました。

この二例だけ見ても、やはり、エビデンスのない「専門家」の発言は怖いと、あらためて痛感します。

とくに、突然一斉休校になってしまったときには、おかしいと思ったことはきちんと伝えておくべきだった、嫌われてもいいから批判すべきところは批判するべきだったと激しく後悔しました。

 

繰り返していうと、あくまで本当に悪いのは政府です。

責任者は政府であり、判断するのも政府。

そこを間違えてはいけないですね。

きちんと政府の責任を問うべきで、日本では高くそこを曖昧にして、それが免罪につながり、結局何が問題だったか曖昧なまま、教訓化できずに同じ失敗を繰り返してしまいます。

専門家には専門家の責任があります。

エビデンスに基づかないことを、予言者の如く言い立てるのは、無責任な「専門家」のやることです。

さらに、間違ったことを言った後に反省せずに、その後も予言者気取りをやめられないなら、成長しないエセ「専門家」かもしれないと見抜いていくことも必要になります。

専門家の意見で、やはり重要なのはエビデンスがあるかどうかです。

吉村府知事のイソジン会見でも、そのことは明確になったと思います。

 

検査はなぜ増えないのか?という疑問に立ち返ると、システムの問題は大きいと思います。

検査機器をそろえても、検査技師でなければ検査が行えないのでは限界があります。

もし可能ならば、各地域の拠点病院に全自動PCR検査機を導入して、周辺のクリニックもそこに持ち込めばすぐに検査ができるようにすればベストです。

そうするためには、検査技師がいなくても、全自動であればPCR検査ができるように法改正しなくてはなりません。

また、民間で検査をして、陽性が出た場合には、必ず保健所に報告するなど、情報をいかに行政がしっかりと把握していくかということも重要です。

検査数や検査の内容、検査結果などは、そこから陽性率などを把握していくために重要な情報で、もれなく中央が捉えて、研究に反映され、政策決定に生かされなくてはいけません。

そう考えると、闇雲に検査数を増やせという話にならないようにと、現場の人や専門家メンバーが慎重さを求めるのも極めて当然のことのように思われます。

現場のことをよく知らない一般の人の側から、「全数検査を」という声が上がり、現場側から「全数検査というのは、特異度があって・・・」という反論が返ってくるという構図になっていて、検査の拡大の仕方についてはもっとていねいな議論にしていかないと、平行線なんですよね。

もう一つ、医系技官の人たちが検査拡大を妨害しているのではないかという説を唱える人たちもいます。

これが果たしてそうなのかというのは、その人たちの意見を全部さらってみないと言えないことですが、はっきりと言えるのは、「この人たちが検査拡大に反対している」といえるような明確な根拠はどこにもないということです。

あくまでも、憶測で、「何やら計算を用いて発言していて・・・」と。

だけど、その内容が検査拡大に反対なのか、それとも闇雲な拡大に慎重なのかというのはまったくわからないまま、「あの人たちが・・・」という批判が繰り返されているわけです。

これはひどいな、と思っています。

批判をするなら、明確な根拠を示すべきで、ちゃんとした根拠もないのに原子力ムラと同列に扱われる筋合いのものではありません。

それなのに、「批判する人の言うことなんて気にすることはない」とかね。

それは、自分が根拠のない批判をしている相手に対して言ってあげてほしいよね。

自分自身や自分の身近な人に対しては、「批判されるとかわいそう」という立場で、根拠を示した批判にも耳を貸さず、自分自身はちゃんとした根拠も示さずに原子力ムラと同列に扱うような批判をする・・・そういうことでいいんですかね?という感じがします。

分科会メンバーの一人、岡部信彦さんについて、知人に、ほんとのところどう思ってるんだろう?と聞いたところ、「岡部さんはいろんなことを知りすぎているんじゃないか」と言っていました。

おそらく、現場のことをよく把握していて、保健所の逼迫状態をわかっているということのようで、それをこれ以上強めないということがあるのではないかと思うんですね。

とくに、聞き取り調査というのは専門的な技術が必要で、陽性者が出てくると聞き取りをしなくてはいけないわけです。

たとえば、全数検査を行なって、偽陽性が出ても、聞き取りをしなくてはいけない。

特異度をもうちょっと高く見積もって、99・999%にしたとしても、東京都の全数検査では140人の偽陽性者が出てしまう。

そうではなくて、もっと効果的にコロナを把握するPCR検査の使い方をする必要があるし、そこに知恵を練る必要があるんだと思うんですね。

こういう状況では、現場に寄り添い、現場感覚があるというのはとても大事なことだと思います。

沖縄が店名公表をしなかったのも、疫学調査に支障をきたすから、という理由を言っていましたが、有り体に言えば、店名公表するようになると、「迷惑がかかる」という理由で、自分の行動履歴を正直に言ってくれない人たちが出てきて感染ルートをつかみにくくなるということなんですね。

これは、明らかに感染対策にマイナスなわけで、そういうことが一番わかっているのは現場なんです。

そういう想像力もないままに、「行政が悪い」とか批判するのはどうかと思いますよね。

PCR検査を増やすには、先ほどから書いているように、政治がきちんと動くことが大事です。

そもそも、この問題の根底には、政府が、保健所を減らし、医療を削減してきたということがあるわけです。

「そんなこと今更言っても仕方ない」というのは、責任は誰にあるのか、判断するのは誰なのかを曖昧にしてしまう日本国民特有の感覚で、これが無責任なトップを生み出し、無責任な専門家を生み出しているのだと思います。

責任者の不作為が今の事態を生んでいるのだということを、もう一度再確認して、責任者がきちんと動くべき、まずは国会を開いて法改正をするべき、というのがまっとうな主張だと思います。

「愛の不時着」と「アシガール」に見るイケメンの法則

職場では、私の右隣りに趣味の合う友達が座っていて、しばしばマンガやジブリの話題で盛り上がります。

今日の話題はマンガ「アシガール」。

NHKドラマの原作でもあり、女子の描き方がジェンダー的にもおもしろいのです。

ストーリーは、現代の女子高生がタイムスリップして、戦国時代でばったり出会った若君様に一目惚れ。

若君をお守りするために足軽になって大活躍するというスペクタクル?ファンタジー

まず、この「女子が男を守る」という展開がgood!

「女は守られるもの」というバイアスをあっさり突破するんですよね。

さらに、主人公の唯さんは、超足が速く、若君の馬の脇にピタリとくっついて走れるというんだから、笑ってしまう。

戦場では泥はかぶるし、風呂には入れないし、馬の糞を処理するし、臭くて汚いヒロインっぷりがなんとも好印象(笑)

こんなんで、どうやって若君のハートを射止めるんですか?という状態なのだけど、若君の女性の趣味もちょっと変わってるんですよね〜(笑)

まあ、それは置いといて、この若君がなんともナイスな好青年なのです。

それで、友達とキャーキャーとミーハーぶり炸裂してたのです(笑)

まず、凛々しい。

剣を手に馬にまたがり、颯爽と駆ける姿がいい!

次に、優しい。

変てこりんな主人公なのですが、まったく差別することなく、誰にでも明るく優しく接してくれるのです。

さらに、誠実。

ナンパさ、軟弱さ、ズルさ、卑劣さ、ゼロでございます。

そして、ここが一番のポイントだと思うのですが、一途なんですね。

なぜか、変わり者の唯にベタ惚れで、とてもモテるのにほかの女性には一切目もくれない。

そこだけでも立派にイケメンだよな〜と思ってしまうのです。

戦国の世の若君ですから、側室を何人も持つことが認められているどころか、「早くお世継ぎを」と送り込まれてくるわけです。

それも、とびきりの美女で性格もよかったりするのです。

それでも、まったく関心を寄せないんですね〜。

戦国時代でも現代でも、女性たちに超モテモテ。なのに、一人のちょっと変わり者の女子に一途。

な〜んて、現実にはいないですよね〜、そんな男性。

 

それで、友達とキャーキャー言ってたわけです(年甲斐もなく)

 

で、私が、「若君に似てるよ〜」とオススメしたのが「愛の不時着」の将校のリさん。

これはいま話題の韓国ドラマで、北朝鮮の将校と、韓国の財閥令嬢で敏腕社長の国境を超えたラブストーリー。

そのリさんがなんともイケメンで、ハマって何度もリピってる女性が続出なんだそうです。

リさんは、一見寡黙な北朝鮮兵。

パラグライダーで間違って北朝鮮に落下したユンさんを自宅にかくまうのですが、社長令嬢はとてもわがまま。

不便な北朝鮮の暮らしの中で、「シャンプーはないの?リンスは?私はアロマキャンドルがないとお風呂に入らないのよ」と注文ばかり。

困ったものだとぶっきら棒に対応するリさんですが、そっけなくしながらもシャンプーやリンスを探しに行ってくれるシャイだけど実は優しいという、多くの女性がキュンキュンするタイプのイケメンです。

麺を自分でこねておいしい料理を作ってくれたり、普段は飲まないコーヒーをわざわざ入れてくれたり、そっと支えてくれるタイプ。

アシガールの若君と同じく、凛々しく優しく誠実、三拍子そろっている上に、イケメンには絶対に欠かせない一途さも。

許嫁がいるのに、断ってしまうんですよね。

アシガールと違うのは、こちらでは命を狙われるのはユンさんの方で、ユンさんを助けるために、リさんは命がけで戦い、華麗なアクションを披露します。

やっぱり、自分のために命がけで戦ってくれるというのは、女子の夢なんですかね〜。

お姫様願望というか、バイアス入ってる面ではあるんだろうなぁと思います。

そこは、アシガールの方が一歩新しいのかもしれませんね。

 

もう一つ、2つの作品世界に共通するのは、異世界に紛れ込み、異なる文化の中で驚いたり、異なる価値観を発見したりがあるところです。

とくにアシガールの方は、まったく時代が違う男女が出会い、側室を持つのが当たり前の世界に生きる若様が唯のために現代の価値観をどんどん受け入れていくところですね。

そのしなやかさは、リさんも若君とよく似ているところだと思います。

 

どちらも、女性たちの願望をがっしりと詰め込んだ感のあるキャラクターなのですが、その中でも一途さが繰り返し強調されるところが、女性たちの心を捉える一番の点なんだろうなという気がします。

それだけ、現実の男性の中に、ほんとに相手の人格に惚れ込んで一途に思ってくれるというタイプが少ないと女性たちが感じているから、ある意味、希少価値として、一途な男性の人気が跳ね上がるんじゃないでしょうかね?

ドラマやマンガの男性がキャーキャー言われるのは、現実の男性の貧弱さが原因なんではなかろうか?と思ってみたり・・・。

みんな、いい出会いに恵まれて、幸せになるといいなぁと、ふと思ってしまいます。

 

斯く言う私は、夫とつきあいはじめて30年がたとうとしていますが、つきあいはじめたころと変わらず、いまも優しく大切にされていて、結構、希少価値のある側に恵まれたのかもしれないなぁ、とチラッと思ってみたり。

まあ、ポッコリおなかのおじさんで、そもそも全然モテないですし、そういう意味ではどこにでもいるから、希少価値はないかな、うん、全然ないな(笑)

9月入学か、5月入学か

あっという間に立ち消えになった9月入学案。

前川喜平さんは、最初から「ムリです」と言っていて、なんでムリなのか聞いてみたかった気がします。

9月入学でなくても全然いいのだけれど、子どもたちが12カ月分の勉強を12カ月でギュウギュウ詰めでやるようになるのは避けてほしいです。

かといって、基本的な学力がちゃんとつかなくなるのも困ります。

道徳と小学校の英語とプログラミングは外してOKだと思うのだけど、たとえば算数とかは、ちゃんと理解できるように教えておいてもらわないと、後からわからなくならないか?と心配になります。

だから、簡単にムリとか言わず、いくつかの選択肢の一つとして、一番妥当性のあるものは残しておいてほしい。

というか、ほかの選択肢をきちんと提示することこそ、大事なことなんじゃないですかね?

私としては

 

1、単元を必要なものにしぼる。ムダな部分(道徳とか)は削る

 

2、5月入学案。入試と卒業と入学を1〜2カ月ほどずらす

 

3、9月入学案

で、9月入学案が一番複雑なので、ちょっと長めになります。

0年生案というのが基本ですが、現小1年〜高3年までは来年9月に進級・進学とします。

保育園、幼稚園生は4月に進級。

来年3月に卒園した子たちは0年生になって、9月に1年生が2年生に進級したら、新1年生になります。

その次の年から、園児たちも9月に入園・進級して、年長さんは8月に卒業します。

問題は、保育園児の0〜2歳児クラスを前半組(4〜8月生まれ)と後半組(9〜3月生まれ)に分けて、ゆっくり同学年を組み替えていくことです。

そうしないと、大きな子たちの同学年を急にバラバラにすると、いじめや劣等感などを生みやすくて、クラス作りがしにくくなるからです。

0〜2歳児だけ、前半組は9月進級、後半組は4月進級というように、2グループに分けて入れ替えてしまいます。

そうすると、卒園するころには、同学年は9月生まれ〜翌年8月生まれとなり、6歳入学で7歳に進級に戻ると思います。

保育園入園は、4月入園と9月入園を両方やったらいいと思います。

次に、大学は、いまの大学1年生が卒業するまでは3月卒業に固定します。

いまの高校3年から、9月入学、9月進級、8月卒業にします。

その4年ほどの間に、各企業の就活と入社の時期を移行していきます。

卒業してから入社までの間などはインターンとして雇う方法もあるんじゃないですかね。

入社以外の社会システムは変更しなくてもすむんじゃないかと思います。

0年生導入のときは、教員を増員しなくてはいけません。

その増員した分を、そのまま、1クラスの子どもの人数を減らして、採用しつづけることが大事だと思います。

教員は、もっと増員して、1クラスの人数を少人数制にすることこそ、世界のスタンダードです。

私が本当にやってほしいのは、月を海外に合わせることではなく、教育水準を世界のスタンダードに合わせることなんですよね。

空間も人員も時間も、もっとゆとりが必要です。

そのためには、教育予算は拡充するべきなのではないかと思います。

 

でも、0年生案は、どうやら潰れてしまったようですね。

結局、国民の半数は反対しているわけで、そういう状況下では進められませんね。

実のところ、制度の案に対する反対というよりも、失敗するとツケを下の者たちに押し付けてくるリスクがあるからこその反対なんじゃないですかね。

実際、突然の休校要請のために、現場の教師や教育委員会はえらい目に遭ったわけです。

もう、余計なことはしてくれるな、という心境なのだと思います。

 

なので、9月入学案は、はい、消えました。

長々と読んでくださった方がいたとしたら、ごめんなさい🙏

 

では、2の5月入学案はどうでしょう?

これはいけると思いますよ。

仮に、すべての学年を5月に進級させるとしたら、春休みが有効活用できるようになります。

春休みの代わりの役目を果たすのがゴールデンウィークです。

そこまで大規模にしなくても、新1年生の入学だけを5月にする方法もあります。

そのとき、小学1年生も、0年生などとする必要はありません。

親が働く子の場合は、1カ月間、学童保育に行ってもらえばいいのです。

ほかの子たちは、4月いっぱいが実質的な春休みです。

子どもたちに短期間で詰め込んで、落ちこぼしを出し放題なんてことは、無しにしてほしいですよね。

きちんと策を練って、子どもたちが疲弊しない1年間にしてほしいと思い。

なんだかもういいかなぁ〜と思うとき

いろいろなものと関わっていると、うまくいかなくてイライラしたり、がっかりしたり、腹が立ったり、いろんな気持ちが湧き起こる。

そういう気持ちが起きる時は、まだがんばる気力があるということなのだと最近思う。

ごまかしとか、馴れあいとか、いろんなものが目について、なんだかもういいかなぁ〜と、妙に冷めた気持ちになる時こそ、引き際なんだろうなぁと思う。

自分がやってきたことがバカバカしくも思えるし、目的が何だったのかもよくわからなくなる。

また、仕切り直して、新しい場所をつくっていけばいいのだ。

心からおもしろいと思えて、響き合える場所を。

急がなくても、仕事はおもしろいわけだから、プラスαの楽しみはゆっくりとピッタリくる場を探せばいい。

安倍氏、妄想の歴史認識。「満洲はドイツから譲り受けた」

サンデープロジェクト   志位委員長の発言(大要)
2005年8月1日(月)「しんぶん赤旗


 三十一日放映のテレビ朝日サンデープロジェクト」での日本共産党志位和夫委員長と自民党安倍晋三幹事長代理との討論から、志位氏の発言(大要)を紹介します。司会は田原総一朗氏でした。

■政局緊迫の根本に、外交・内政での自民党政治のゆきづまりが

 冒頭、田原氏は郵政民営化法案をめぐる自民党の混迷について安倍氏に質問。安倍氏は「小泉首相は党との対立の摩擦熱を利用してきた。それが尾を引いている」とのべました。

 志位氏 やっぱりいま起こっている事態というのは、郵政の民営化に対する批判が直接的にはあると思うんですけれども、外交も内政も、(小泉内閣の)四年間で本当にゆきづまったと思うんです。国民のみなさんの中に非常に深い閉塞(へいそく)感がある。

 外交の問題では、あの靖国神社に参拝することに固執するために、アジアとの付き合いができなくなっている。あるいはイラクに派兵して、にっちもさっちも行かなくなっている。ゆきづまっています。

 安倍さんが内政の話を言われましたけれども、国民の暮らし自体が、雇用も悪くなる、所得は減っていく…。

 田原氏 雇用はよくなっていますよ。

 志位 雇用は不安定雇用にずっと置きかえられて、正規社員が減らされて、まともな働きかたができなくなっている。これは「リストラ」の応援でやられています。介護、年金、医療、社会保障の切り捨てがかぶさってくる。「痛みに耐えたら明日が見えてくる」といっていたのに、つぎはサラリーマンの大増税だとか、あるいは消費税の増税だとか、非常にゆきづまっています。

靖国問題の核心――「戦争は正しかった」という戦争観

 議論は靖国問題にうつり、田原氏は「中国、韓国は(首相の靖国参拝に)不信感をもっている」として、志位氏に見解を求めました。

 志位 靖国神社の問題の一番の核心、本質というのは、靖国神社がそもそも、あの戦争に対してどういう立場をとっているか、どういう歴史観、戦争観に立っているかという問題だと思います。

 靖国神社に「遊就館」という軍事博物館があって、ここに展示されているものの図録が本になったものなんですけれども(『遊就館図録』を示す)、これを読みますと、最初に靖国神社宮司の方のあいさつがあるんです。あの戦争について、「我国の自存自衛の為(ため)、さらに世界史的に視(み)れば、皮膚の色とは関係のない自由で平等な世界を達成するため、避け得なかった戦ひ」と言っているわけです。あの戦争は「自存自衛」、あるいは「アジア解放」のための、「正しい戦争だった」という立場に立っている。

 そしてこの宮司のあいさつの中では、その立場にたって、「近代史の真実を明らかにする」といい、これが靖国神社の「使命」だと、つまり国民の中にこの立場を広げていくんだと、平たく言えば宣伝していくんだと(のべています)。これが「遊就館」の実態にも表れているんです。これが一番の私は問題だと思います。

■戦争正当化の立場にたつ神社への参拝は、深刻な問題となる

 田原氏は、靖国神社が発行している冊子「やすくに大百科」が、「日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国とともに栄えていくためには、戦わなければならなかった」と書いていることを紹介。志位氏は「当時の戦争指導者が言ったその言葉そのままで言っている」と指摘しました。

 安倍氏は、「それはことの本質ではない」「歴史観についていえば、いろんな考え方、いろんな見方があって、白や黒や、正義・不正義ときれるものではない」などとのべました。

 志位 歴史観はいろいろあるといまおっしゃったんですけれど、例えば日本政府は村山首相談話(一九九五年)や、小泉さん自身がこの前(四月)のジャカルタでのアジア・アフリカ首脳会議で、「侵略と植民地支配への痛切なお詫(わ)びと反省」、こう言っているわけです。これが政府の一応の歴史観なのです。私たちからみるとまだ不十分な点があるけれども、「侵略と植民地支配」、こう言っているわけです。

 ところが靖国神社の立場というのは「正しい戦争だった」と言い切っている。私は、首相が、ここに参拝するということになりますと、非常に深刻な問題が生まれてくると思います。「正しい戦争だった」という靖国神社の戦争観に日本政府がお墨つきをあたえることになります。

 これに対し、安倍氏は、村山談話について「もちろん政府の出した重要な談話で、私は植民地支配と侵略という側面をまったく否定しているわけではない」とのべましたが、「それと歴代総理が靖国神社に参拝するという行為は、別のことだ」とのべました。

 志位 私は、戦争で亡くなられた方への追悼というのは政府の責任だと思います。問題は、追悼の場として靖国神社という場がふさわしいかどうかということです。

 さきほど(安倍さんは)靖国神社の戦争観は本質じゃないと言いましたけれども、靖国神社が、政府の戦争観ともまったく違った「正しい戦争だった」という戦争観を持っている。それを広げることを「使命」としているわけです。ここが問題なのです。

安倍氏に問う――過去の戦争、戦争犯罪への自らの立場を語るべきだ

 田原氏は、靖国神社が、東京裁判で裁かれたA級戦犯は「ぬれぎぬを着せられた」と主張していることについて、安倍氏に見解を問いました。安倍氏は、東京裁判について「戦勝国によって裁かれたという大きな問題がある」とのべ、有罪判決を受けたA級戦犯賀屋興宣氏がのちに法相、重光葵氏が外相になったことなどをあげ、「国内法的には犯罪者ではない」とのべました。

 志位 A級戦犯として裁かれた人たちというのは、結局、B、C級とも違った罪の重さをもって裁かれました。すなわち、あの侵略戦争を計画、開始、遂行したと、戦争指導者としての責任が裁かれたわけです。

 私は、東京裁判にはいろいろな問題点があったと思っています。しかし、東京裁判が、日本の戦争が侵略戦争だったときちんと断罪したこと、その責任をもつ人々について個々的にも罪を明らかにしたことは正しかったと思っています。このことを否定しますと、「日本の戦争は正しかった」ということになるんです。

 安倍さん、いまいろいろなことを言われました。賀屋さんや重光さんが大臣になったということも言われました。しかし、だいたいA級戦犯として有罪の判決がくだった人が大臣になるような政治そのものがおかしいと、私たちはずっといってきました。

 私は、安倍さんにはっきり聞きたい。二つ聞きたい問題があります。

 一つは、安倍さん自身は、過去の日本の戦争を、靖国神社のように「自存自衛」の戦争だと考えているのかどうか、それともまちがった侵略戦争だと考えているのか。これを一つはっきり答えてほしい。

 もう一つは、A級戦犯の人々について、靖国神社のいうように「ぬれぎぬだ」と、罪がなかったという人たちだと考えているのか。それともやはり、国際法廷で裁いたこと自体は、正しかったと考えているのか。罪の重さ、量刑はともかくとして。この二つの質問に答えるべきだと思います。

■日本とドイツの侵略戦争が間違いだったというのは、戦後世界の土台

 志位氏の質問にたいし、安倍氏は「基本的には歴史観等々について、政治家が発言することによって別の意味をもってくる」と主張。「大平(正芳)首相は、A級戦犯の問題、大東亜戦争の問題は歴史が判断をくだすだろう(とのべた)」「今のスタンダードでもって、当時の状況を断罪しても、あまり意味のないことだ」とのべました。

 志位 いま長々とおっしゃられたけれど、結局、「歴史が判断する」というのが安倍さんの「戦争観」ということになりますね。結局、その問題について自らのお考えを持たないということになるわけです。

 しかし、日本とドイツがやった侵略戦争は間違いだったというのは戦後の世界の土台です。国連憲章もその立場に立って書かれている。日本国憲法もその立場に立って書かれている。ポツダム宣言の受諾もそうなんです。これをひっくりかえすことになるわけです。

 これに対し、安倍氏は「日本は日本として責任をしっかりととった。平和条約を結ぶときに、国民の税金でしっかりと賠償金を支払ってきた」と主張。「鬼の首をとったように、おまえらまちがっただろう、侵略しただろうということを、同じ日本のなかで言い合うことはきわめて非生産的だ。そういう問題にすることはまったく意味のないことだ」とのべました。

アジア諸国民の二千万人以上の犠牲――この痛みへの理解がない

 志位 そういうことを問題にすること自体が問題だということを言われたんですが、この戦争でアジアの国々で二千万人以上の方が犠牲になっているんです。

 この戦争がはじまったのは、どこを起点にするかはいろいろあるでしょうけれども、一九三一年の「満州事変」で「満州」(中国東北部)に攻め入った。攻め入って、「満州国」をつくった。一九三七年に日中戦争へと全面的拡大をやって、一九四一年に太平洋戦争という形で、東南アジア全体に(侵略を)広げた。

 安倍氏 満州は攻め入ってつくったわけではないですよ。

 志位 関東軍が攻め入って「満州国」というかいらい国家をつくったわけです。その全体のなかで、二千万人という方がなくなっている。

 安倍 満州に対する権益は第一次世界大戦の結果、ドイツの権益を日本が譲り受けた面がありますよ。

 志位 ちがいます。日本の関東軍のように「満州」全体に攻め入って、かいらい国まででっちあげた国は日本しかないのです。

 安倍さんの議論のなかには、あまりにも痛みを受けた側の民族の苦しみにたいする理解がないと思います。国内の問題だったら、時がくれば忘れられることがあるかもしれない。しかし、他の国の民族から加害を受けた、そして侵略の傷跡が残った、これは必ず親から子に、子から孫に伝わっていくんです。

 安倍 志位さん、まちがっている。

 志位 たとえば、日本国民は広島、長崎を絶対に忘れないでしょう。私は、忘れてはならないと思う、この被害は。これを忘れてはならないのと同じように、アジアの人たちが日本の軍国主義で殺された、虐殺された、この加害の歴史を忘れてはならない。

インドネシア紙でも、小泉首相靖国参拝問題へのきびしい批判が

 安倍氏は「インドネシアでは独立のためにたたかった日本人の兵士は国立墓地に栄誉を与えられている」とのべ、「志位さんがひとくくりにするものとは違い、歴史にはいろんな側面がある」とのべました。

 志位 インドネシアの話をされました。ユドヨノ大統領とあなたが会談されて、そこで大統領がいろいろなことをおっしゃったとよくいわれますが、たとえばインドネシアの「ジャカルタ・ポスト」という(同国)最大の英字新聞があります。そこで論評が載って、"小泉首相インドネシアジャカルタで反省をいったけれど、すぐに裏切った"と、つまり靖国参拝問題で裏切ったと、そしてなんていっているか。

 安倍 どんな新聞か知りません。

 志位 最大の英字新聞です。"インドネシアで日本軍がやった行為というのは、オランダ三百年の植民地統治よりももっと残虐だった"ということを、インドネシアの人たちが(いっています)。

 安倍 そんなことをいっている人たちはいませんよ。それは驚きですね。

 志位 それはあなたが知らないだけですよ。

■勘ぐりをもって外交をやってはならない

 コメンテーターから、A級戦犯が合祀(ごうし)されている靖国神社に首相がいくという問題をどう打開するのかとの質問が出されました。安倍氏は、「韓国との関係では、日本は韓国と戦争したわけではない。象徴的なものとして反対している。A級戦犯とは事実上関係ない」と主張。「中国との関係では、はたして靖国参拝を止めれば、それで問題がすむのだろうか」と提起し、「中国共産党が一党支配をしているという正当性が必要だ。そこで残虐な日本に勝った、日本はまた軍国主義化する危険性がある(と主張する必要がある)」と中国側に問題があるとの立場を表明しました。

 志位 そういう勘ぐりをもって外交をやったらだめだと思う。だったら、なぜ韓国があれだけ厳しく批判をするのか。シンガポールの首相も厳しく批判している。説明がつかないじゃないですか。

 あなたのいうようにあれこれの憶測をもって相手の国を論じて、相手が悪いんだ、だから筋の通らないことをやってもいいんだと、これは絶対によくない。そういうことをやるのは、外交として一番悪いやり方だということをはっきりいっておきたい。

 安倍 いまの構造問題が改善されないと、これからも問題が起こってきます。

 志位 それでは永久に中国とは仲良くできないというのが安倍さんの立場になります。